相馬ステーションホテル
〒976-0042 福島県相馬市中村1−8−20
↑施設の外観
交通手段:JR常磐線相馬駅→徒歩約1分
値段:6930~9450円
ホテル飛天
〒976-0023 福島県相馬市和田字中迫104−3
↑施設の外観
交通手段:仙台空港→バス仙台空港からJR館腰下車→JR常磐線館腰駅から相馬駅下車→タクシー約10分
値段:12600~26250円
なぎさの奏夕鶴
〒976-0022 福島県相馬市尾浜字追川147
↑施設の外観
交通手段:JR常磐線相馬駅→バス福島交通松川浦行き約20分船越バス停下車→徒歩約5分
値段:10500~39900円
相馬旅行記
戦国時代にタイムトラベル!?相馬野馬追い(by よこさん)
知ってるヒトだけが楽しみにしている
福島県は相馬市の夏の祭り。
一応、全国版のニュースでもチラッと紹介されます。
再び相馬へ 鹿狼山(新地町)に登る(by moroccogawaさん)
鹿狼山へ登りました。登るといっても登って下りて1時間ですが。
酒田で舞妓さんと楽しんじゃったよ(by 旅は人生の友さん)
今年のひな祭りは昨年から酒田と決めてました。
去年鶴岡へ行った時に酒田の良さを紹介されていたからです。
酒田はさすが、豪商の家が多かったので、お雛様も立派でした。 しかも、なんと、そこで、舞娘茶屋・雛蔵畫廊・相馬樓で舞妓さんの踊りを見学したら何と吉永小百合さんと写真を撮影したとの事です。それこそ私が行ったたびのメインの大人の休日クラブの宣伝の写真だったのです。感激でした。
半年ぶりの相馬★行きつけのお店で魚介類を楽しむ(by moroccogawaさん)
相馬市の居酒屋だいきち へ。写真は10月12日、宮城県名取市・愛島球場で行われた試合。高校野球秋季東北大会、聖光学院(福島)−光星学院(青森)でした。来春の甲子園につながる大事な試合、しかも好カードだけあって多くの観客で溢れていました。9回を終了して0−0でしたが、延長10回の末、1−3で我らの聖光学院は敗退。
日本の旅 関西を歩く 滋賀・大津「瀬田の唐橋」の伝説(by さすらいおじさんさん)
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、全長約260mの瀬田川にかかる橋で中の島をはさんで大橋と小橋の2つの橋にわかれている。
瀬田の唐橋は宇治橋(京都府宇治市の宇治川に架かかっている)、山崎橋(淀川の京都府大山崎町-八幡市間に架かっていた)とならんで日本三古橋の一つとされており歌川広重(1797−1858年安藤広重)が『近江八景』の『瀬田夕照(せたのせきしょう)』で唐橋を描いたことで知られる。松尾芭蕉も瀬田の唐橋付近を何度も歩いており、1688年、45歳の時に「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋(さみだれに かくれぬものや せたのはし)」48歳の時に「橋桁の忍は月の名残り哉(はしげたの しのぶはつきの なごりかな)」の句を残している。芭蕉は大津市膳所(ぜぜ)・義仲寺の源義仲の墓の隣に埋葬されることを遺言したが、大津の地を何度も訪れたくさんの俳句を残し、この地を愛したことが良く解る。
瀬田の唐橋は大阪市の「御堂筋」、京都市の「哲学の道」などと並んで日本の道100選にも選ばれているが橋が選ばれるのは珍しく、それだけ古橋として歴史的価値が高いということだろう。古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われ 壬申の乱(じんしんのらん672年)では大友皇子(おおとものみこ648−672年・弘文天皇)と大海人皇子(おおあまのみこ631−686年・天武天皇)の戦場となり、「承久の乱(じょうきゅうのらん1221年)」、南北朝時代 ・1336年の 足利尊氏 勢と 新田義貞 勢の戦いなどの舞台になった。また、瀬田の唐橋は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の異称とされる俵藤太秀郷(たわらのとうだひでさと)が大ムカデ退治をしたという伝説で知られている。藤原秀郷は940年、天慶の乱の首謀者・平将門(たいら の まさかど903頃―940年)を下野(しもつけ・茨城県、千葉県)で打ち破った実在の人物。
大ムカデは滋賀県野洲郡の三上山(通称近江富士)に七巻き半、巻きついたまま頭を瀬田唐橋まで延ばして毎夜大事な水を飲み、若い女性を襲う乱暴を働いていたが村人は手のほどこしようがなかった。名高いつわもの・秀郷は龍姫(たつひめ)という女性に退治を懇願され見事に弓矢で大ムカデを射止めた。そのお礼に龍宮に案内され、竜神から吊り鐘(三井寺の弁慶の引き摺り鐘だといわれている)や大量の米俵などもらったので俵籐太秀郷と呼ばれるようになった、という伝説だ。
ここで興味を持ったのは大ムカデと平将門の関連性だ。将門は藤原秀郷に討たれたあと、京にさらされた首が目を見開いて大声をあげ、関東に飛んで帰ったなどの伝説が数多く残っている。千葉県佐倉市の「将門大明神」の伝承によると『佐倉風土記』に将門滅亡後の970−972年の間に藤原秀郷の第三子、第四子が次々と亡くなり、将門の祟りだと恐れた秀郷が霊を鎮めるために「将門大明神」を建てて祀ったそうだ。『将門記』『俵藤太物語』などでは将門は銅の頭と鉄の額を持った2m以上の巨人だったという。
千葉、茨城県にまたがる「下総国相馬郡の説話」によると将門の母は大蛇で将門は大蛇の子だったそうで将門は化け物と恐れられていた。これらの伝説から、藤原秀郷が退治した化け物の大ムカデは平将門討伐の伝説が変形したのではないだろうか、などと想像した。
日本各地で祟りを恐れられたくさんの伝説を残した将門の存在感の大きさには驚くが、いろんな伝説が発祥した歴史や「日本昔話」の現場を訪ねるのも楽しいものだ。
(写真は瀬田の唐橋東詰周辺の光景)